COVID-19に関する倫理学的覚書

ヘーゲルの「ミネルヴァの梟は、黄昏がやって来ると初めて飛び立つ」(『法哲学』序章)という言葉は、理論は現実のあとにやって来るという意味だとされる。確かに、現実に対して熟慮を行い、長い討議を通じて理論を彫琢するという意味では、理論はいつでも遅れてやって来るのだろう。しかし、理論的に完成されたもの以外にも、現実の中で考えながら残された覚書に意味があることもある。不完全で現実の深度に追いついていないものであるとしても、覚書をここに残すことにも意味があろう。

COVID-19の流行が示すもの

ここでは、医学的な議論を展開するのではなく、倫理的に考えるために目に付いた事実を列挙することに留まる。

1. 世界の全球化

「全球化」という語は見慣れないだろうが、グローバル化の訳語である。情報テクノロジーや高速移動手段の発達によって、人々が大洋、山脈、大河などで隔たれず、世界があたかも単一の球体であるかのようにみなされるようになったことを指す。

ウィルスには国境が関係ないとは言うものの、それを運ぶ媒体としての人間がいなければ広がることはない。スペイン風邪の大流行は、第一次世界大戦中に世界を転戦する軍人が媒介となっていた。

COVID-19の流行は、グローバル化し、地球上の移動が簡単になっている現状によって爆発的に拡散した。スペイン風邪は港町で流行し、そこから国内に拡散するという経路をたどったようである。一方COVID-19は、人々の移動が容易になったため、気付いた時には各所で小流行地が形成され、そこからあっという間に広まっている。

ウィルスの拡散の仕方が、まさに全球化の時代のあり方を示しているように見える。国境を越えた全球的な経済活動に伴い、国境線で区切る「水際対策」というものがほとんど意味をなしていないことを確認すべきであろう。

2. 新自由主義によるリスクのアウトソーシング

「外に出るのは危険だからUberEATSしてください」という文言を見かけた。この呼びかけ自体は、相手のリスクを思いやった言葉であっただろう。

しかし、UberEATSの配達員は、個人事業主として労災認定から除外され、社会保障費も全学自己負担の中、低い報酬で続けなければならない仕事であることが知られている*1社会保障から外れている低賃金の労働者に感染のリスクを押し付けて、私たちは快適な外出自粛生活ができるというわけである。

余裕のある人が、立場の弱い労働者に買い物や配達を任せることによって、リスクをアウトソーシングする構造が生まれている。おそらく諸外国でも同じようなことが起こっているのではないだろうか。「新自由主義」は、競争の名のもとに、労働者を安価な労働力の位置に追いやる。そしてその中でも弱い立場の人間が、リスクを一身に担うことになる。

3. 「弱い人」のリスクが高まる

障害者施設で集団感染が起こったと報道があった。障害者で自立生活が難しい人は、いったん施設内で病人が出てしまったら、逃げようがないという問題が生じている。また、基礎疾患や持病がある人など、身体的に弱い人が重症化しやすいとも言われている。身体的に弱さを抱えている人ほど、リスクが高くなるのである。

もちろん、これは地震や水害などの災害の時も同じであろう。障害をもった人たちの避難をどうするのか、基礎疾患などがある人を避難所でどのように遇すべきか、考えるべき課題であろう。

しかし、COVID-19では、まさにそれが命に直結する問題として露わになっている。災害弱者と言われる人たちについて、社会がどのように対処すべきなのかを考えるべきであろう。

4. 女性に負担がかかる構造

 COVID-19の流行に伴い、学校の休校が決まった(休校の決断の是非については別に考えるべき問題であろう)。その結果、学校に子どもを通わせている女性(特に低学年の子どもをもつ)が仕事に行けないかもしれないという問題が生じた。もちろん、父子家庭もあり、父親が仕事に行けないという事態も生じていただろう。だが、多くの場合では、女性が子どものケアを担わざるを得ない状況の中で、女性に負担がかかってしまっていた。

「疾病」や「生命」といった問題系の中に「ケア」という問題が重要なものとしてあること、そしてその「ケア」がもっぱら女性が担わざるを得ないこと、このことを忘れて生命について迂遠な形而上学を述べたとしても、空虚な言葉になってしまうのではないか。フェミニズムは、COVID-19の問題においてもアクチュアルな意義をもっているのではないか。

5. 親密な距離の破壊

social distanceを保たなければならない、2m間隔をあけなければならない、ということは上述のケアの問題に、さらなる課題を突きつける。ケアは親密な距離感が必要とされる。ケアの基本距離が破壊されてしまい、ケアするものとケアされるものはお互いが感染源にならないように閉じこもるしかなくなる。その結果、ケアするものとされるものが取り残された空間が完成する。ケアするものは、ケアのプレッシャーから一時的に解放されるために外出することができず、ケアされるものも特定のケアワーカーに依存せざるを得なくなる。

これはケアするものにとっても、ケアされるものにとっても、どちらも危機を招きかねない状況である。ケアされるものはプレッシャーとストレスにさらされ続け、ケアされるものも特定のケアワーカーに依存し、逃げ場所がない。しかし、外部からの介入は、距離の壁があり難しくなる。

親密な距離の破壊により、ケアワークが大きな危険にさらされていると言えよう。

まとめとも言えない展望

 全球化による問題、新自由主義の問題、災害弱者の問題、ケアの問題、これらはひとつながりの問題のようにも思える。

新自由主義と全球化は軌を一にしており、大企業はグローバルな競争を口実に、社会福祉の削減、公共空間の縮小を政府に働きかけ、人件費削減を名目として労働者を安価な労働力としかみなさなくなる。その結果、労働者は社会保障の枠組みから外れて弱い立場に置かれ、リスクを一身に担うことになる。

災害弱者やケアワーカーも同様に、公共空間の縮小によって私的領域に追いやられ孤立化させられる。

私たちは、COVID-19が示す問題に対して、公共を回復し、分断されてしまった人々の親密な関係をどのように結び直すのか、考えるように迫られている。

追記(4月27日)

その後の社会情勢を見て、いくつか付け加える必要があるようだ。

看取り・弔いの問題

感染が広がることを防ぐため、家族さえ感染者に近付けない状況が生じている。さらに、死去後も近づけず、骨になって初めて遺族が亡くなった人と対面できるという話も聞く。

感染力の強いウィルスが、分かれのプロセスとしての看取りや弔いを不可能にしている、ということは考えるべき事柄である。親しい人の死を受け入れるプロセスをどのように構築すべきか、これも一つの課題であろう。

私権・自由の制限

私たちは、私権や自由の制限をどれだけ受け入れるべきか。韓国、台湾など軍事政権の名残で国民総背番号制度が確立している国が封じ込めに成功しつつあるように見える。私たちはそれを手放しで賞賛すべきかどうか、よく考える必要があるだろう。

コロナ後の世界が、監視国家、警察国家とならないよう、私たちは慎重に未来を構想すべきである。